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ホーム  病院のご紹介  沿革・歴史
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沿革・歴史

沿革

 大正12年11月   京都市下京区東洞院通仏光下ル
 大阪逓信診療所京都支所開設 内科診療
 昭和 3年 3月   京都市三条通新町西入ル釜座町35に移転
 昭和 7年 6月   耳鼻咽喉科増設、外科を兼担
 昭和12年 2月   京都逓信診療所と改称
 昭和16年12月   京都市中京区東洞院通姉小路下ルに移転
 昭和20年 4月   京都市中京区六角通堺町角堀之上町に疎開移転
 昭和22年11月   京都市左京区岡崎円勝寺町91に移転
 昭和22年12月   産婦人科 歯科診療取扱い
 昭和23年 4月   京都逓信病院設置
 内科、外科、産婦人科、小児科、眼科、耳鼻咽喉科、歯科診療
 病床20床
 昭和25年 2月   皮膚泌尿器科
 昭和26年12月   病床37床へ
 昭和28年 2月   放射線科設置
 昭和32年 7月   病床40床へ
 昭和36年 9月   京都市中京区六角通新町西入西六角町109に移転
 鉄筋コンクリート造り地下1階地上3階
 病床50床
 昭和49年 7月   増改築 鉄筋コンクリート造り地下2階地上5階塔屋1階
 病床100床
 昭和51年 5月   整形外科設療開始
 昭和56年 7月   一般保険設療開始
 昭和61年 2月   放射線科廃止
 昭和63年 2月   皮膚泌尿器科廃止
 平成元年  2月   歯科廃止
 平成 9年 5月   麻酔科設置
 平成15年 4月   日本郵政公社付属施設となる
 平成16年12月   放射線科設置
 平成19年10月   日本郵政株式会社付属施設となる
 平成22年9月30日   産婦人科廃止
 平成22年10月1日   婦人科設置
 平成23年1月1日   99床
 現在に至る

歴史

”京都市中京区六角通り新町西入ル”

(私たちは”新町六角”と呼んでいます。)が当院の住所です。

京都盆地のほぼ中央に位置し、まわりには京の都の時代からの面影があちこちに残っています。

東横通りには祇園祭の鉾が立ち、巡行の時にはすべての鉾・山車が通ります。室町通り(新町通りの1筋東)は、西陣と並ぶ着物の織り・染め屋さんが集まる呉服の町です。

六角通りを東に進んでいくと、聖徳太子時代からの六角堂があり、京都のど真ん中の”へそ石”で有名です。

また、当院敷地内には、昔から語り継がれてきた場所があります。

京都逓信病院敷地縁起・・・

当院は、旧三井財閥の総本家、三井発祥の地に建設されています。

もともとは、後鳥羽上皇御所のあった地で、徳川初期以降、脇坂中務守龍野藩邸の一部でした。

貞亨三年九月に三井八郎右衛門高利という人が買い取って両替店を開き、明治三十七年に三井銀行がこの地に誕生しました。

三井銀行が四条烏丸へ移転後は、三井本邸として、当院が左京区岡崎円勝寺町からこの地に移転するまでは、代々の当主の邸でした。

古文書によりますと、「三井邸西南隅に極めて清涼にして自らあった名水肉桂水なる井戸があったが、応仁の乱以後その所在がわからなくなった。」とあります。

三井家の当時のままの面影は殆ど残っていませんが、僅かに当院裏庭の南端にある石畳のつたいに、その片鱗を窺うことが出来ます。また、「邸内に『信長の首洗い井』と称する池がある。」と記されてますが、その石垣だけは現存し、病院建設復元されています。

さて、本能寺の変は天正十年(1582年)六月二日のことです。本能寺は現在、寺町御池下ルにありますが、これは京都の寺が寺町通りへ強制移転された時から移ったものです。

当時は、現在の病院の西側五十メートルほどにあり、六角通りから錦小路のあたりまでの寺域を有していました。

本能寺に宿泊していた信長は、無防備のすきを襲われ明智光秀に謀反され自刃したことは誰でも知っていることです。

蓮臺山由緒略記によりますと、当時の阿弥陀寺の住職清玉上人は、本能寺の変を聞き、大恩ある織田家の一大事と僧を引き連れ本能寺に駆けつけたが、明智の軍勢が四方を囲み寺内に入れず裏道より辛うじて入った。

しかし、お堂は炎上中、信長はすでに割腹自殺したとのこと、遺言に「光秀に遺骸をわたすな。」とあったが周囲を敵に囲まれ不可能、しかたなく傍らの竹林で火葬をしていた。それに出会った清玉上人は、[自分と信長公とは、格別の間柄であるので火葬は勿論将来の追悼もする。あなた方は自害するより敵と戦ってはどうか」と申し出たところ、武士たちは大いに喜び敵と切り結んでいるうちに火葬を終え、白骨を法衣に包んで、本能寺の僧徒らがにげるのに紛れ込んで脱出し、阿弥陀寺へ持ち帰ったとあります。

由緒略記にあるように、寺内の一隅で火葬を行い白骨にすることには疑問があります。最新式の重油焼却炉で千度以上の火力でさえ完全に骨にするには一時間二十分かかり、蒔などを用いる昔式の野辺の送りだと、骨にするのに一晩はかかるはずです。そうすると、あの[白骨を法衣に包んで」のくだりは時間的に少々無理で、おそらくその人の象徴である「首級だけを法衣に包んで」本能寺の僧らに紛れて脱出、阿弥陀寺での方角は本能寺の北東ですから、そこから五十メートル東方に清水を満々に湛えた池があれば、ひとまず灰や血にまみれた信長の首級を洗って綺麗にしたのではないでしょうか。そして『信長首洗池』という名称が残ったのではないかと思われます。

だだ信長の墓は京都に三ケ所もあり、それなりのいわく因縁があるようですが本能寺の焼失跡地に、信長の弟の織田有楽斎なる人物が居を構えています。この人の兄が有名過ぎたので余り知られていませんが、武勇の方もなかなかの剛の者であったといいます。豊臣秀頼の母淀君の少女期つまり茶々の頃に、ここに同居していたともいわれており由緒ある所です。


これからも新町六角・京都逓信病院から京都歴史情報を発信していきますので、みなさまもぜひご意見・ご感想をお寄せください。

〒604-8798
京都市中京区六角通新町西入西六角町109
京都逓信病院
TEL:075-241-7170
FAX:075-252-2542

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