「正常圧水頭症」という疾患は1965年南米コロンビアの脳神経外科医Salomon Hakimによって提唱されたものです。歩行障害、認知障害、尿失禁を3つの主症状とする病態で、脳の中の髄液をためているスペース(=脳室)が大きくなることが原因でおこります。特徴的なことは脳室の水をおなかに流す手術(VPシャント)によって症状が改善することです。
発表当初は、加齢現象によるとおもわれた症状が手術で治るということで、大変な注目を集めましたが、症状が改善しない例も多数あったことから次第に影が薄くなってきた感がありました。
最近になって、診断技術の進歩や、手術デバイスの改良などにより、治療成績が向上し、さらに社会的ニーズの高まりもあって、再び注目が集まってきています。
「正常圧水頭症」には原因がはっきりしている「続発性」のものと、原因が不明のもの、すなわち「特発性」があります。
続発性は外傷や髄膜炎に引き続き起こるものもありますが、最も多いのはくも膜下出血のあとに起こるものです。くも膜下出血の結果、脳脊髄液の吸収が障害され、正常圧水頭症になることはしばしば経験されます。このような場合、脳室腹腔シャント(VPシャント)を行うと、症状は劇的に改善されます。(図1)
図1.脳室腹腔シャント(VPシャント)
「特発性正常圧水頭症」とは明らかな原因疾患がなく、いつの間にか脳室が大きくなり、歩行、認知、排尿の障害が現れてきたものをいいます。ただ、人は年をとってくると誰でも、脳室が大きくなり、歩行障害も認知障害も多かれ少なかれ現れてきますから、手術をするためには厳密な診断基準が必要になります。
かつて手術を行っても無効だったケースが多かったのは、そもそも診断に間違いがあったためではないかと考えられています。当時はまだCTスキャンもなく、脳室の大きさを調べることさえ大変でした。そのような医療レベルでは診断、治療を正しく行うことは困難だったと思われます。
以下にどのように診断し、治療するのかをご説明します。
この疾患には診断のためのガイドライン(表1)があります。これらは必須項目といわれすべてを満たしている必要があります。判定は問診とCTスキャン、MRIなどの画像診断で行います。中でも大事なのは水頭症のタイプを見分けることです。
(2004年日本正常圧水頭症研究会)
必須項目
通常の脳萎縮では脳全体がまんべんなく萎縮し、脳室も大きくなってきます。特発性正常圧水頭症では脳室が大きくなったため、むしろ頭頂部の脳は圧迫されているのが特徴です。
ガイドラインの必須項目を満たしたら、入院してタップテストという試験を行います。これは腰椎穿刺という方法で髄液を30ml排除して、その後の症状の変化をみるテストです。脳室内の髄液の量が減るとどうなるかをあらかじめ調べるわけです。
このテストで明らかな症状の改善が見られれば、特発性正常圧水頭症である可能性は高まります。
ここまで確認したのち、初めてVPシャントの手術を行うことになります。脳室に1ミリほどの細い管を入れ、それを皮下に通して腹腔内に導く手術です。管だけを入れると立って歩くと髄液はみな流れてしまいますから、途中に圧をかけるためのバルブを入れます。
1960年代にVPシャントが行われ始めたころはシャントの圧は一定、すなわち髄液の流れる量は一定でしたが、現在はシャントの圧を皮膚の上から変えられるようになりました。この結果、手術後に症状や脳室の大きさを見ながらシャント圧を変更し、髄液の流量を調節して症状の改善を図ることも可能になりました。圧を変えられるバルブは「ハキム」という商品名ですが、これは正常圧水頭症の提唱者であるSalomon Hakimの息子であるCarlos Hakim氏が開発したものです。親子2代にわたって正常圧水頭症に立ち向かっている執念を感じさせます。
わが国では、手術後1年目での症状改善率は80%と報告されています。年齢とともに歩行障害、認知障害などの症状が進行していってもおかしくない状況ですので、80%の改善は満足できる数字と思われます。
特発性正常圧水頭症の発生頻度がどれくらいかははっきり分かっていませんが、日本での推計によりますと、人口10万人当たり100人といわれています。東京都の人口に当てはめてみると、都内で1万2千人ほどの方が罹患していることになります。実際に手術を施行されている方はそれほど多くはありません。ということは、特発性正常圧水頭症でありながら見過ごされている方が大勢いることになります。
歩きにくい、物忘れがひどい、尿失禁があるなどの症状でお困りの方が身近にいらしたら、単なる老化かもしれませんが、もしかすると特発性正常圧水頭症かもしれません。ご興味をもたれた方は、どうぞ脳神経外科外来にいらしてください。